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 Jul 22,2019

■喜代三の生き方

 山中貞夫監督の傑作「丹下左膳余話・百万両の壷」(1935年)に登場する矢場の女将がお藤。ちょっとセリフに訛りのあるこのお藤の着物の着こなしや艶っぽさがとても演技とは思えず、他の女優さんと比べても腹の据わり方が全然違うような気がしていたのですよ。それもそのはず、このお藤に扮した喜代三という人は、当時の現役売れっ子芸者なのだそうです。

戦前の映画界の女優がどのような出自だったかといえば、芸事の世界から映画界に入るというケースは少なくなく、喜代三は花柳界での評判が映画関係者の目に留まり、映画の世界に入った人です(ただし芸者も並行して続けていた)。芸者なので、三味線や歌、踊りなどの芸事には通じており、時代劇には即戦力だったというわけです。

芸者がどのような職業であったかは、現在では大変あいまいになってしまいましたが、ものの本によれば、色を売るのは娼妓で、芸を売るのが芸妓(芸者)なのだそう。喜代三は歌の方でも評判が高く、レコードまで出していますので、現在で言えば、銀座の現役人気ホステスさんが映画女優もやって、レコードも出すほどの芸があったという感じでしょうか。おそらく当時は女性が自ら志願して女優や歌手になりたいというケースは少なかったでしょうから、喜代三のような芸事に長けた人にはどうしてもオファーが集中したと考えられます。

また、芸者は所属する置屋が変わればその都度、名前が変わるのが慣例で、喜代三も10に近い別名があり、それはそのままこの人の起伏のある人生を表しているような気がします。34歳の時に歌の縁で知り合った作曲家、中山晋平の後妻に入り(ここまでが戦前の話)、すぐに別れるだろうという周りの評判に反し、生涯添い遂げたとのことです。

 

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