■TEXT

 Dec 23,2021

■ROMA

 アルフォンソ・キュアロン監督の「ROMA」。「ゼロ・グラビティ」を観て以来、この監督はただ者ではないと確信し、この「ROMA」もものすごい意気込みで観たのです。

まず、設定を理解するのに時間がかかりました。言葉はどうもスペイン語のようで、イタリアのローマではないらしい。そして時代は1960年代か1970年代のようだと。子供部屋にMEXICO70というポスターが貼ってあり、1970年代のようだと理解します。

つまり、1970年のメキシコの「ローマ地区」と呼ばれる場所で、中産階級の家庭の家政婦として働く女性を軸とした物語です。音楽がなく(当時の流行歌のような曲は劇中で流れる)、モノクロの柔らかく美しい映像は大変静謐な印象を与えます(ちなみに予告編にはピンクフロイドの音楽がついていました)。淡々と流れていく物語は小津安二郎監督の作品との共通点もある感じです。

心を動かされたシーンや信じられないほど美しい映像はあるものの、観た直後は期待したほどではなかったというのが正直な感想でした。ところが、観た次の日あたりになにかすごく大きなものが心のどこかに残っていることを発見するのです。すると、ひとつひとつのシーンがまるでカラーになったように生き生きと蘇ってきました。その大きなものがなにかはちょっと言葉では言い表せません。大がかりなセットや凝りに凝った小道具やコスチューム、どこから調達してきたのだろうと思う古い車は、その言葉で表せないものを伝えるための脇役に過ぎません。ちなみに私が映画を観る理由はこの説明出来ないけれどとても心を動かされるなにかに出会うためです。

ひとつひとつのシーンをゆっくりと思い出してみると、例えば、あの大きすぎていつもぎりぎりで車庫に入る車は夫の心理描写なのだなとか、いつも外へ出たがる犬もそうではないかとか。そして、心に残ったもののひとつを強いて言葉にするなら誰もが心の中に抱えている孤独感みたいなものでしょうか。キュアロンはこの孤独感を増幅させるために、わざわざ大家族という設定や恋人との関わりを用意したように思えます。「ゼロ・グラビティ」にも共通するものがあった気がしますが、「ゼロ・グラビティ」ではこの孤独は最後に救済されて終わりますが、「ROMA」では最後の強い海のシーンでも救済されなかったように見えます。

私が一番印象に残っているシーンは森のような場所で子供が宇宙服のような服を着て、水たまりを歩いている短いシーン。カメラは右から左へとゆっくりパンし、奥には集団の子供たちが駆けてゆき、手前には犬たちが駆けてゆきます。言葉では表現できないほど心のどこかを揺さぶられる映像です。極論すれば、こんなシーンが1つでもあれば、私はその映画を観る価値があったと思うのです。音楽がないのは映像のみで自分の伝えたいことは表現できたというキュアロンの自信から来るもののような気もします。それから、これはキュアロンのお遊びだと思うのですが(ネット上の誰も指摘していませんが)、劇中の映画「宇宙からの脱出」の宇宙飛行士は「ゼロ・グラビティ」に出ていたジョージ・クルーニーだったと思うのですが。

「ゼロ・グラビティ」が始まってから数分でその世界に入れたのに対し、「ROMA」は後になってじわじわと心のどこがが浸食されていることに気付くような作品でした。いずれにしても私はこれからもキュアロンの作品を追いかけていくつもりです。


 

■■■■■■■■ kishi masayuki on the web


<<   TEXT MENU   >>

HOME