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 Apr 17,2023

■1970年代初頭の音楽シーン

 今になって1970年代の音楽関係の知らなかった話がよく耳に入ってきます。

例えば、こんな話。高橋幸宏さんと小原礼さん(と、もうひとりのメンバー)がCSN&Yのようなグループをやっていて、自分たちは「青い目のジュディ」とか相当うまいと思っていたそう。ところが、ある日、対バンでガロが出ていて、CSN&Yのカバーのあまりのうまさに自分たちのグループはあきらめて、ガロのバックをやりたいと申し出たというエピソード。ちなみに1971年の中津川フォークジャンボリーにガロが出演した際のバックはこのおふたりだそう(スタジオはやっていない模様)。結局、その後、ガロは歌謡曲のような路線に行ったので、嗜好が合わず、バックは辞めて、加藤和彦さんに誘われ、ミカバンドに加入したという流れです。

ちなみに初期のガロは明らかに芸能界とは一線を画す音楽的フィールドにいた人たちでしたが、職業作家によるヒット曲が出て、テレビの歌番組に出るようになると、そのパブリックイメージも相当変わりました。当時はまだ自分たちで曲が書けることよりもうまいパフォーマンスが優先される時代。赤い鳥も最初は洋楽のコピーやカバーから入って、職業作家の曲でブレイクしたわけですが、ガロの方がひときわ芸能界的なイメージが強かったのはこの歌謡番組出演の多さやルックスのせいだったかもしれません。

オフコースでさえこの時期、レコード会社の意向で京平さんの曲を歌ったのですから、GS時代から脈々と続く、ヒットを狙うには有名作家に曲発注するという手法はまだこの時代も生きていたというわけです。ガロとオフコースの違いは、ガロはその曲が幸か不幸か大ヒットしたということでしょうか。でも、ガロはヒット曲が出てから後、再びメンバー自身の曲をシングルにし、自らイニシアチブを取るという本来の方向に戻っていきます。私はこの時代の「吟遊詩人」というシングルを買った覚えがあります。

話をミュージシャン界隈に戻すと、スタジオワークもできるミュージシャンがそれまでのジャズ出身の人たちからやや変化したのは1970年代初頭に台頭してきたはっぴいえんどの細野晴臣さん、鈴木茂さん、ミカバンドの小原礼さん、高橋幸宏さん、高中正義さん、フォージョーハーフの後藤次利さん、林立夫さん、松任谷正隆さんという人々が活躍し始めたからで、ジャズではなくロックを聴いて育ったという共通項がありました。彼らは譜面も読めるのですが、自分の好まないジャンルのスタジオワークには積極的には参加しないというスタンスだったようです(細野さんがスタジオワークの一部で変名を使ったケースにその片鱗が見えます)。そして、彼らの新しい音楽的スキルを見抜き、結びつけたキーパーソンは加藤和彦さん、かまやつひろしさん、村井邦彦さんという感じでしょうか。同時にアルファ・レコードやマッシュルーム・レーベルなど既成のレコード会社を販売元にしながらも、新しい音楽を作ろうとする源流が生まれたというわけです。


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