■金閣寺
私は読んでいる本で気になる部分があると付箋を挟む習慣があるのですが、三島由紀夫の「金閣寺」は私の持っている本の中でもひときわ付箋の入り方の多い本です。この本を先月の下旬から久々に読み始めたら、止まらなくなり、結局1カ月かけて丁寧に読み直してしまいました。
今回はなるべく謎解きのような気持ちで読むことを辞めて、自然体でゆっくりと読むことを努めました。そして、理解しにくい部分は自分なりの解釈にたどり着けるまで何度も読み返しました。ゆえに1カ月もかかったというわけです。
途中、この小説が原作になった映画の「炎上」も観ましたが、映画では当然、原作の様々な部分が省略されたり、付け加えられていたりします。映画は、母と自分、父と自分、老師と自分という人間関係に主題を置いて作られているようです。特に原作と大きく異なるのは、すっぽり抜けている有為子のエピソードと柏木の告白、老師が囲っている芸者が妊娠する下りも原作にはなく、禅海和尚のエピソードも原作では主人公はここで初めて理解されたと思うのですが、映画では逆。極めつけは原作と真逆の結末です。つまり、映画は原作とところどころくっ付きながらも、全く異なるところへ着地しているという印象です。
もうひとつの「金閣寺」を原作にした外国映画"Mishima: A Life in Four
Chapters"は柏木と溝口の部分がメインですが、非常に観念的な金閣寺の心理描写をよく映像にしたなと思いました。ただし、一瞬だけ登場する笠智衆演じる老師がなぜ碁を打っているのかは理解に苦しみましたが。
今回、この本を久々に読んでいて思ったことは、三島の言いたかったことは結局、全部「金閣寺」に書いてあったのではなかったかということです。私は「金閣寺」と遺作の「豊穣の海」は姉妹作のような感じがしていますが、「豊穣の海」にしつこいほど出てくる仏教の教義や、認識と行為の関係は「金閣寺」ですでに触れていることですし、主人公が放火するために用意周到にするところなどは、なにやら現実の三島が自決のための周到な準備をしていたことを思い起こさせます。僭越なことを承知で言わせてもらえば、「金閣寺」が最初から最後まで研ぎ澄まされた印象であるのに対して、「豊饒の海」は終盤になるにつれて澱のようなものが積み重なっていく感じがして、読んでいて辛くなるところがあります。特に3巻、4巻は読んでいて、抜け殻の三島が最後の力を使って、辻褄合わせを懸命にしているような気さえするのです。これは「豊饒の海」執筆のころにはすでに文学という表現方法に関して失望を感じ始めていた三島の心情の反映だったのかもしれません。
また、今回は旧かなづかいの単行本で読みましたが、こちらのほうが数段格調高いと感じました。いずれにしても、猛暑の季節に読むにはぴったりの作品でした。私にとって「金閣寺」とは難解ながら、何度も読まずにはいられなくなる永遠の愛読書です。たぶん、また折に触れて読み返すのだろうなと思います。
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