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Jul 23 ,2013

■リバプール・ファイブ

 
1960年代に活躍した日本のミュージシャンのインタビューで断片的にでてくるリバプール・ファイブというバンドの名前。誰もがビートルズ以上の衝撃を受けたと口を揃えて語っているのです。

来日したのは東京オリンピックのあった1964年の夏。後楽園アイスパレスではなんと「リバプール・ビートルズ」という名前で日本のシンガーやバンドと共演しました(この際、興行の人に頼まれて通訳をしたのはエディ藩さん)。たぶん、当時のビートルズ人気にあやかってイベンターか誰かが勝手にそういう名前にしちゃったんだろうなと想像いたしますが、東京ビートルズもあったことですし、おおらかな時代だったのでしょう。日本には3週間ほど滞在し、新宿ACBなどに出演していたとのこと。ところがこのキワモノ的な名前に反して、このバンドの出す音に見ていた日本のバンドはみんな驚いてしまったといいます。おそらく日本人が初めて生で見た本物のビートバンドのサウンドではなかったのでしょうか。日本でベンチャーズのようなエレキインストバンドのブームがボーカル中心のバンドに移行していく過程で、大きな影響を与えたのは巷ではビートルズということになっていますが、プロの現場では実際にその演奏でみんなを驚かせたリバプール・ファイブであったことは間違いないでしょう。

グループサウンズを知っている人はバンドのボーカルが大きな四角いマイクを使ってる場面に記憶があると思いますが、あれはオーストリア製のAKGというマイクで、それもこのリバプール・ファイブが持ってきて、その高音質に誰もが驚き、みんなが使い始めたということです。また、VOXのアンプも彼らが持ち込んだのが最初だったと言われていますし、BINSONのエコーマシンを持ってきていたという人もいます。

その後、バンドはアメリカに渡り西海岸を拠点に活動し、ブリティッシュ・インヴェーションの中、UKバンドを探していたRCAビクターと契約、1965年夏にはビーチボーイズがメインのライブでバーズやキンクスなどとともにハリウッドボウルに出演した経験もあるということです。全米でリリースされた2枚のアルバムはなんとアル・シュミットがプロデュースしましたが、ヒットには恵まれず、バンドは1968年に消滅したとあります。

ところで、ネットで見つけた元リバプール・ファイブのメンバーのインタビューを読むと、1964年、すでに日本にはPAシステムがあり、見たこともなかったので驚いたとありますが、日本のミュージシャンのインタビューを見るとリパプール・ファイブの要請でPAシステムが作られたとあります。実際はどうだったのでしょうか。ちなみに1966年のビートルズ日本公演では東京音響という会社が作った大きな複数のスピーカーがアリーナの台の上に設置してあり、返しはないにしても巷で言われているほどひどい音響ではなかったのじゃないかとも思ったのですがね。

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