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Sep 7 ,2013

■「バラが咲いた」のバージョン違い

 
や音楽関係者のインタビューなどによれば、日本では1960年代までレコード会社が作詞・作曲家を抱える専属作家制度というシステムがあり、原則的には専属作家の曲でなければレコードをリリースすることは難しかったそうです。

そういえば、昔、ビクターの会議室だったか、役員室だったか、歴代の専属作家の人たちの写真が額に入れられて壁にかかっていたのを良く覚えています。そして、専属作家というのは作家の師弟制度によってセレクトされる場合が多く、つまり、いくら良い曲が書けてもそのような派閥の人ではないと専属にはなれず、レコードの曲を書くなどということは夢の夢であったということです。

そのシステムに風穴を開けるのが、1960年代半ばから台頭してくる音楽出版会社でした。音楽出版会社が専属作家以外の作家を使って、原盤までを制作し、オリジナル曲でヒットを生み始めるのが1965年頃。ところが当時はまだ専属作家制度を幅を利かせているので、裏技として専属作家以外の作品は洋楽レーベルからリリースという苦肉の策がとられたケースも多かったということです。メンバー自作の曲も多かったGSの多くが洋楽レベールからのリリースであったのはこのような事情もあったのでしょう。

さて、ここからがようやく今回のテーマ。コロムビアとの専属契約が切れた浜口庫之助さんが書いた「バラが咲いた」は、音楽出版会社のシンコーミュージックが原盤を制作して、マイク眞木さんが歌い、日本ビクターの洋楽レーベル、フィリップスからリリースすることが決まります。音源が完成した時点で各関係者に聞かせると、非常に評判が良く、宣伝も乗って、早速、レコードのプレスにまわされました。そのような道筋がついた時点で、浜口さんのところへ初めて音源を持っていくと、「コードが違うので、録り直してくれ」と言われるのです。ところが、もうその時点ではもう間に合わなかったようで、録り直しは行われたものの、シングルでリリースされたのは最初のコードの違うバージョンでした。

確かにこの2つのバージョンを聞いてみると、最初のシングル・バージョンは全部メージャーコードで、サビのキモとなっているマイナーコードへの進行がなく、浜口さんがこだわった気持ちは大変よく理解できます。また、この2つのバージョン、よく聞いてみるとメロディも微妙に違う箇所があります。ちなみに、ヒットした1966年にマイク眞木さんは紅白に出場し、この曲を弾き語りで歌うのですが、その動画を観ると用心深く取り直したバージョンのコードを弾いているのが分かります。

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