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Sep 14 ,2013

■ノー・ノー・ボーイ

 
パイダースの「ノー・ノー・ボーイ」。まだヒット曲が出る前のスパイダースのシングルですが、この曲は当時の基準ではいくつかのイレギュラーな特徴を持っていました。それは曲がメンバーの手によるオリジナルであったこと(曲はかまやつひろしさんで、詞は田辺昭知さん)。そして、曲のテイストが全く当時の歌謡曲とは異なり、洋楽と比較しても全く遜色ないことでした。この曲のリリースされた1966年の日本のヒット曲ベスト3が橋幸夫さんの「霧氷」、千昌夫さんの「星影のワルツ」、青江三奈さんの「恍惚のブルース」であったことを考えれば、日本の音楽界のメインストリームが洋楽とは程遠い所に存在していたことは明白で、その中でリリースされた「ノー・ノー・ボーイ」はヒットこそしませんでしたが、歌謡曲とは全く違う日本語曲として登場したことは想像に難くありません。

1950年代から1960年代初頭の日本の音楽界では洋楽に日本語の詞をつけてリリースするという手法も常套句として用いられていました。「テネシーワルツ」、「ケ・セラ・セラ」、「監獄ロック」、「ステキなタイミング」などはその例ですが、洋楽カバー曲と歌謡曲にははっきりとした区切りがあり、例えば、「監獄ロック」をブレークさせた小坂一也さんは「ハートブレイクホテル」などと同時に青春歌謡で「青い山脈」をメージャー調にしたような「青春サイクリング」を歌っていたのです。この時代の洋楽と邦楽の乖離加減はビートルズの来日公演のオープニングアクトなどを聴いてもよく分かります。加えて、歌手と作家がはっきりとした分業であったこの時代、歌手自身が曲を書き歌うという形態は非常にめずらしいものでした。1965年の大ヒット曲、加山雄三さんの「君といつまでも」によって、まだ言葉はなかったものの、シンガーソングライターという存在が業界内では認知されたのでしょう。

「君といつまでも」もアメリカンポップスの洗練された香りのする曲でしたが、「ノーノー・ボーイ」は明るいアメリカンポップスとは対照的な、少々紗がかかったようなブリティッシュビートバンドの香りがする当時としては稀有な曲だったのだと思います。後にかまやつさんが、この曲はコースターズに影響されたと語っていますが、なるほど、ブラックのR&Bグループ、コースターズと言えば、ビートルズも初期に'Young Blood'、'Searchin'、'Three Cool cats'などを演奏していて、それが後のビートルズのサウンドのひとつのルーツになっていることは明白です。

つまり、かまやつさんとビートルズは偶然にも、同じ時代にコースターズというルーツミュージックを聴いていて、そのようなヘビーなブラックR&Bをイギリス人の感性でフィルタリングした音楽がブリティッシュビートバンドやモッズという形態の元となるわけですが、かまやつさんはそれにも影響を受けたのでしょう。それらがミクスチャーして生まれたのが「ノーノー・ボーイ」だったのではなかったのでしょうか。そして、この曲がビートルズ来日やGSブーム以前の日本でシングルとしてリリースされていたという事実は実に画期的な事だと思うのです。

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