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 May 6,2024

■坂本九ものがたり

 永六輔さんが書いた坂本九さんの評伝。副題に六・八・九の九とあるように永さんや中村八大さんのエピソードも多く出てきます。

歳で言えば九さんが1941年生まれ、永さんが1933年生まれ、八大さんが1931年生まれですから、九さんとおふたりの作家とは10年ぐらい歳の差がありました。

八大さんに関しての興味深い記述は、高校生でジャズピアニストとしてプロのバンドに入った1949年の話。入ったバンドのサックスが川口養之介(ジョージ川口の父)で、ギターが植木等。ジョージ川口はその時に三木トリロー楽団にいて、そのボーヤが林家三平だったと書いてあります。三木鶏郎の界隈といえば、いずみたくや五木寛之を輩出する当時のクリエイター集団ですが、そのマネージャーが阿木由紀夫を名乗っていた野坂昭如。野坂さんの本(風狂の思想 1977年)によれば、当時、放送作家だった永さんの仕事ぶりを見て、永さんを天才だと思ったという記述もあります。

ちなみに九さんも最初はエルヴィスのコピーから入り、ロカビリーに行き、多くのロカビリー歌手が日本語の歌に転向した時に、たまたま「上を向いて歩こう」(1961年)に出会ったという流れだと思います。時代がちょっと違えば「黒い花びら」(1959年 永六輔・中村八大 作)を九さんが歌っていてもおかしくはなかったと。逆に他の元ロカビリー歌手が「上を向いて歩こう」を歌っていたことも十分にありえたというわけです。

また、この「黒い花びら」については驚くようなエピソードが書いてあります。この曲、永さんや八大さんにとっては初のヒット曲でしたが、印税契約ではなく、買い取りだったのだそう。その買い取り額は\3,000。永さんはこれで滞納していた学費が払えるので喜んだとあります。当時、ラジオなどでコントを1本書くと、ギャラは\300。肉体労働者の日給がニコヨンと呼ばれ\240だった時代なので、これは数をこなせる人にとっては割のいい仕事だったのでしょう。


 

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