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 Jul 13,2020

■谷崎と横浜

 1920年、横浜に映画会社「大正活映」が創立されると、すでに人気作家であった谷崎潤一郎は脚本部の顧問として招聘されました。翌年、谷崎は小田原から横浜の本牧へ転居するのですが、この転居先がすごい場所でした。

現在の小港橋から北東にかけて当時はまだ埋め立てられておらず、海水浴が出来るほど海岸が隣接していました。ここに軒を連ねていたのが「チャブ屋」。「チャブ屋」というのは主に外国人の船員相手の娼館です。ただし、海岸に近く景観も良いという土地なので、外国人の別荘などもあり、谷崎が妻と娘、そして妻の妹を連れて居を構えたのはそのような場所でした(このあたりの話は谷崎の「港の人々」に詳しく書かれていますが、チャブ屋に対して特に偏見を持っているような記述はなく、むしろそこで働いているたくましい女性たちに一種の憧れのようなものを抱いている書き方が印象的で、後の「痴人の愛」のナオミにつながるような気がします。この本には谷崎が出入りした場所として、山下町のグランドホテルや中華街の聘珍楼、娯楽施設の花月園などの名前が登場します)。

谷崎の本牧の家はすぐ下が海という二階建てでしたが、台風により被害を受け一年足らずで山手で引っ越します。この山手の和洋折衷のような住宅は現存しており、豪邸が立ち並ぶこのエリアの中でも大きな木々が庭にあることからひときわ目を惹く建物です(私事ですが、私がかつて仕事場としていた場所は偶然にもここからさほど遠くない場所でした)。

ところが1923年の関東大震災で横浜は壊滅状態となり、箱根にいた谷崎は横浜に帰れないことを知り、そのまま関西に移住します。つまり、谷崎は横浜で2度の天災を経験し、やむを得ず横浜を離れたのでした。わずか2年間、居を構えたに過ぎない谷崎が横浜に強い印象や愛着を持っていたことは「痴人の愛」、「一と房の髪」をはじめ、何度も横浜やそこで見たであろう外国人が作品に登場していることからも伺われますが、「肉塊」も横浜が舞台で、大正活映顧問時代の映画製作のメンタリティが如実に語られています。

大正活映は岡田時彦(岡田茉莉子の父)や内田吐夢(映画監督)など多くの才能ある人材を輩出しましたが、残念ながらビジネスとしては軌道に乗らず、わずか2年で解散、谷崎の映画に対する並々ならぬ情熱も一旦ここで潰えるのでした。谷崎が大正活映で直接関わって製作した映画は「アマチュア倶楽部」を筆頭に4本と言われていますが、フィルムはおそらく喪失し、わずかに残るスティルでしか観ることができないのは大変残念です(淀川長治さんは10代の頃に「アマチュア倶楽部」をリアルタイムで観たそうです)。映画というメディアが芸術作品として認知され、手厚く保護されるにはまだ時代が早かったということだったのでしょう。

(写真はかつて大正活映の撮影所があった場所に隣接する公園)

 

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