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 Sep 25,2020

■遍歴時代

 シンガーソングライターから職業作曲家へシフトした時期、何の肩書もなかった私に興味を持って曲の依頼が来たきっかけは、ヒットメーカーの林哲司氏の事務所に新しく来た作家だから一度お手並みを拝見してみようという一点だったと思います。発注主の大多数が私がシンガーであったことは知らなかったし、知っていたとしてもどうということはありませんでしたが、私は曲の出来のみが評価される作家の世界がとてもフェアなものに感じ、性に合っていました。

当時の打率、つまり提出曲に対しての採用曲の比率は5割に届かなかったと思いますが、それでも提出してからなしのつぶてではなく、ここを直してほしいという先方からの反応があれば、見込みのある曲ということでした。

当時は信念を持ってここを直してくれと言うディレクター氏がたくさんいました。いわばトレーナーとボクサーのような関係で、まだ気持ちのみが先走り、またひとりよがりな矜持が邪魔をし、自分の曲に冷静なジャッジができなかった私にとってそれは貴重な学習の場でした。そもそも曲作りを誰かに習ったこともなければ、わずかな音楽的な経験と勘のみに頼って曲を組み立てていた私にとってはっきりと良し悪しの判断を告げられることは新鮮なことだったのです。

今にして思えば何の所縁もない年上のディレクター諸氏が忙しい時間を割いて私の曲を真剣に聴いてくれたり、ここを直せば使えるとか、君はこういうのを聴きなさいとテープに大量の曲を入れて渡してくれたことはその後の曲作りにどれだけプラスになったことか。そして、なんとか作家として芽が出た時に、自分のことのように喜んでくれたディレクター諸氏の温情を忘れることはできません。

 

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