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 Jun 1,2022

■国際女優・谷洋子〜1/3

 昔、今はなき銀座の福家書店でDVDを買いました。タイトルは「金星ロケット発進す」(1960年)。共産圏の製作したSF映画で、原作がスタニスワフ・レム(イカリエ-XB1やソラリスの原作者)であるこの映画に、聞きなれない名前の日本人が出演していることに以前から興味を持っていました。この日本人女優が谷洋子という人です。

日本映画ではほとんどその名前を見ることもなく、wiki(日本版)によれば「近松物語」(1954年)と「生きものの記録」(1955年)に出演しているとありますが、どちらにも冒頭のクレジットに名前は見当たりませんし、時系列的にも出演は不可能のように思えます(おそらく同時期のカンヌ映画祭でそれぞれの監督が谷洋子とコンタクトしたかもしれないという情報の曲解であると思われます)。

日本映画で確実に出演しているのは「裸足の青春」(1956年)と「女囚と共に」(1956年)の2本で、特に当時の日本の代表的な女優が総出で出演した「女囚と共に」は大作で、原節子、香川京子、久我美子、岡田茉莉子、田中絹代らと同等のスター扱いで名前を連ねています(この映画については後に触れます)。

先日、谷洋子について詳しく調べた本があると知り、早速注文しました。それを読むと驚くことばかり。洋子の祖母・万世は泉鏡花に歌を習い、日本画家・鏑木清方の「築地明石町」(下写真)のモデルにもなっているという知性と美貌を兼ね備えた才女。洋子の母・妙子もその知性と美貌を引き継ぎ、作家・中勘助の作品に登場するほど。妙子は、経済学者で後に日野ヂーゼルの会長となる善一と結婚し、パリで洋子を生みますが、2年の海外生活から帰国後、洋子が14歳になった1942年に34歳の若さで早世。

ちなみに戦前のフランスに渡航できた日本人は財閥の御曹司や芸術家、学者、政治家など。薩摩治郎八や藤田嗣治などが有名ですが、経済力と様々な突出した才能の持ち主に限定されていた時代です。

戦後、1950年、22歳になった洋子はふたたびフランスへ渡ります。翌年に渡仏した人に女優の高峰秀子がいますが、すでにスターであった高峰でさえ、渡仏の費用をまかなうために家1軒を売却したという話が彼女の著書「わたしの渡世日記」に出てきます。また、日本はまだ連合軍の占領下で、渡仏の手続きは現在と比べ物にならないほど煩雑だったことに加え、外貨の持ち込みにも制限があり、日本人がフランスで普通に暮らすには強力なコネと経済力が必要でした。

クリスチャンとして洗礼を受けていた洋子はカトリックの給費生として渡仏しましたが、給費生のわずかな奨学金と仕送りではとても生活は出来ません。そこで生活費捻出のためにショービズのキャリアが始まります。ダンサーから舞台女優と徐々に頭角を現し、映画女優としての初出演が1954年。日本では未公開の「幻想の商人」という作だそうですが、これはシャーリー山口(山口淑子)のハリウッドデビューよりは数年遅れましたが、ナンシー梅木(ミヨシ・ウメキ)、高美似子、京マチ子、岸恵子より数年早い海外映画デビューです。

ダンサー時代から洋子に求められたのは「エキゾティック・ヴァンプ」のイメージでした。つまり、羽衣のようなキモノをはだけた、外国人の目から見たゲイシャ・ガールのような外見です。いうなれば「羅生門」の京マチ子と外国人の演じる「マダム・バタフライ」となまめかしさを合わせたようなもの。注目したいのはそれを誰かに押し付けられて演じたのではなく、アピール・ポイントとして自らの企画で演じていたという点です。このあたりは自ら奇抜な格好をしてパリの知識層の度肝を抜いた藤田嗣治に通じるものを感じます。

(その2に続く)


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