■マホガニーの部屋・追記
ユーミンの「マホガニーの部屋」については昨年末のテキストで書きましたが、さらにこの曲にまつわる興味深い話が出てきたので追記として書き記しておきます。
ユーミンが14歳で書いたという「マホガニーの部屋」は「翳りゆく部屋」の元の詞と言われていますが、当初のメロディは後の「翳りゆく部屋」のメロディではなく、その元メロディが加橋かつみさんに提供された「愛は突然に・・・」(1971年)だったとのことです。つまり「マホガニーの部屋」の原曲はメロディだけが加橋かつみさんのシングルに採用されたということです。
さらにユーミンはアマチュア時代にテレビの若者向け情報番組だった「ヤング720」に出演経験があるとのことです。ユーミンがGSのフィンガーズの熱心なファンだったことは知られていますが、フィンガーズの高橋信之さんが東郷昌和さん(後のバズ)に歌うように勧めたのが「マホガニーの部屋」。そこで東郷さんが「ヤング720」で「マホガニーの部屋」を歌ったのですが、そのバンドが「ブッダズ・ナルシーシー」。メンバーはボーカルが東郷さん、ドラムが高橋幸宏さん(高橋信之さんの弟)で、ユーミンはピアノで参加したそうです。「すべてのことはメッセージ」(山内マリコ著 2022年)によれば、それは1970年の夏前のこと、ユーミンが高2だった時だそう。
ちなみに東郷さんと幸宏さんは立教中学、高校の同級生。ユーミンも高校まで立教女子。高校生だった幸宏さんの家には中学生だったユーミンがよく遊びに来ていたといいます。それにしてもロックやバンドといえば当たり前のように男性社会で、やる曲はカバーという時代。女性でオリジナル曲を書く中学生のユーミンの存在は相当異色だったのでしょう。世界を見ても1960年代後半のロックシーンで名を遺した女性と言えば、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックぐらいで、このあたりがユーミンのロールモデルになっていたのかもしれません。
つまり、「マホガニーの部屋」が「翳りゆく部屋」になり、リリースされる過程を時系列で整理すると、
1967年ごろ ユーミン中2で「マホガニーの部屋」を書く。
1970年初頭
「マホガニーの部屋」をユーミン自らオープンテープで録音。そのテープを高橋信之氏が聴き、ブッダズ・ナルシーシーとして「ヤング720」に出ることを提案。
1970年夏前 「ヤング720」に出演。ブッダズ・ナルシーシーの東郷昌和氏が「マホガニーの部屋」を歌い、ユーミンはピアノで参加する。
1971年 「マホガニーの部屋」の曲のみが加橋かつみ氏のシングルに採用される。
1971年以降のいつか? 浮いた「マホガニーの部屋」の詞にユーミンが新たに曲をつける。
1976年 詞が書き直され「翳りゆく部屋」としてリリースされる
と、だいたいこんな流れだと思います。
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