■「潮騒」考
三島由紀夫の「潮騒」(1954年)。三島ファンではなくても、そのストーリーは広く知られていると思います。「その火を飛び越して来い」というあれです。
誤解を恐れずに言えば、少年少女小説のようなハッピーエンドで、三島作品の中でもかなり異色と言えます。ただし、三島は意図せずにこのような物語を書いたのではなく、意識してそれまでとは正反対の、明るく、健全な物語を書こうとして書いたのでした。ちなみに、この直前に書き終えたのが老作家の依頼によって美貌のゲイの青年が女性に復讐するという「禁色」ですので、その逆方向の意図は明確です。「禁色」は三島自身が外連(けれん)と評価していますので、その逆は、ギミックなしの誰もが共感する物語ということでしょう。
三島作品と言えば、読んだ後に必ずどんよりとした問いかけや、心に引っかかるものが残るというのが定石ですが、「潮騒」は読んだ後にさわやかな気持ちになるというめずらしい作品。強いて三島っぽいところを挙げるとすれば、海女の初江の乳房を他の年配の海女が見て新治と関係があるという噂はでたらめとする部分でしょうか。有力者の息子が初江を襲おうとする場面でも、従来の三島の作風であれば、初江は襲われてしまい、妊娠してしまうというどろどろの展開になりそうですが、有力者の息子が蜂に襲われて逃げてしまうというなんとも戯画チックなプロットで初江は危機を回避するのです。
主人公の新治は純朴で、立派な肉体を持ち、泳ぎが得意と言う三島本人とは正反対のキャラ設定(三島はまだボディビルを始めていません)。「仮面の告白」(1949年)で「私」が反応する近江の腋毛も、汚穢屋の紺の股引も出てきません。三島は自分の作品には自分の分身のような人物をよく登場させますが、「潮騒」には脇役を含め、そのようなキャラを見つけられないのも異色の理由。つまり、私小説的な切り口ではなく、初めてプロの作家として架空の登場人物のみで書いた作ではなかったかと。
例えば、「金閣寺」(1956年)は読むたびに違う視点が生まれ、読んだ人それぞれが全く違う感想を持つ作品だと思いますが、「潮騒」は読者の期待通りに着地する、とても分かりやすい作品です。何度も映画化されたのを見ても分かるように、大衆性があり、広く世間に受け入れられたヒット作です。ところが三島にとってはこの作品はおそらく何種類も書けるヴァリエーションのひとつで、特別に思い入れのある作品とは思っていなかったようです。おそらく三島もここまで受けるとは思っていなかったはず。そして、三島は同じ手を二度と使うようなことはしませんから、このような作品は二度と書きませんでした。
三島の作品は、読むたびになんでこんなまわりくどい言い方をするのだろうとか、何言ってるか分からないとか、また、ようやくたどり着いた自分の解釈が果たして作家の求める正解なのだろうかなどと考えているうちに、読まずにいられなくなるという不思議な中毒性があります。また、2回目、3回目と読む時に、初めて読んだ時には気が付かなかった脇役の登場人物がいきなり存在感を増すこともしばしば。例えば、「金閣寺」では鶴川や後半に出てくる坊さんなど。もしかすると「潮騒」も何度か読むうちに、脇役のキャクターに三島が埋め込んだ重要な意味が浮き出てくるなんてこともあるかもしれません。
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