■ミシマもタルホも
木村カエラさんをヴォーカルに迎えたサディスティック・ミカ・バンドの曲に「Big-Bang,Bang!(愛的相対性理論)」(2006年)という曲があります。その松山猛さんの書いた歌詞の中に「三島も足穂も吃驚」という一節が出てきます。
三島は言うまでもなく三島由紀夫のこと、そして、足穂は知る人ぞ知る作家、稲垣足穂のことです。足穂は三島よりも25歳も年上ですが、三島の著書の中には足穂について高く評価した文章もありますし(「小説家の休暇」や「作家論」)、足穂にも三島の名前の出てくる文章があります。
足穂はその文学的栄光に包まれた作家であり、文壇を俗世間と同一視する資格を確実に持っている作家である。(中略)それは壮大な島宇宙のように宇宙空間の彼方に泛んでおり、われわれの住んでいる太陽系は、それに比べれば裏店の棟割長屋にすぎない。もちろん棟割長屋の軒下にも、朝顔は咲くが・・・。(三島由紀夫「作家論」より)
この文章を読むまでもなく、三島は自分は俗世間の作家であるという自覚があり、例えば、三島は「禁色」を自ら「ケレン」と評し、この作品に関してはどこかで読者におもねたような仕事と自覚していた節があったようですが、足穂の場合はケレン味など寸分もなく、行くところまで行っちゃってるわけで、読者は置き去りにされ、読みにくく、ゆえに古書店ではよく見かけるにもかかわらず、一般にはほぼ忘れられた作家となっているのかもしれません。おそらく、足穂は三島のケレンの入った作品や行動は見抜いていたと思います。三島は常に読まれることを意識して推敲を重ねるようなタイプですが、足穂は読者の存在を全く気にせず、ひたすら独自の世界を突き進みます。
言い方を変えれば、三島は生活者であり、庶民のセンスも信じており、どのように思われ、見られているかも強く意識し、その上で色々と考え、アウトプットするタイプ。けれど、世の中には足穂のように全く違う次元にいて、社会的にもはみだしていることなど全く気にせず生きることのできる人もいるということなのでしょう。
足穂はおそらく自分のなにかを救済するために書かずにはいられなかったのだろうと思います。世の中に天才という者がいて、その条件のひとつがどこか世間の常識や社会的な価値観と相容れない思考であるなら、この人はまさにそんな感じです。この人の粘着質で、社会的禁制事項をこれでもかこれでもかと掘り下げていき、どこまで行ってもさらに先があるような思考は、確かに常人ではたどり着けないほどの境地であることだけは分かります。足穂を我慢して読んでいると、ちょっと澁澤龍彦も思い出すのですが、足穂の前では澁澤はまだ話の通じそうな常識人に思え、足穂のぶっ飛び方には及びません。
自分の追いかけたい世界がたまたま世間の関心と合致することを、世の中で認められるとか売れるとかいうことだと思うのですが、そのような野心とは全く無関係な、生活や名声などという雑音のしない場所で黙々と自らの追いかけたい世界を追いかけ、誰にも気付かれることなく没してゆくという生き方も清々しいなぁと思います。
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