■TEXT

 Aug 5,2025

■落語の遊郭

 古典落語でなぜ遊郭が舞台になるかと言えば、それは遊女と客との考えの落差が大きく、コミカルになるからだと思うのです。

元々、遊郭とは虚構の場で、遊女は客の望むような架空の薄幸な身の上話もするし、複数の客に起請文(年季が明けたら一緒になりますという誓約書)も書いたりします。遊女のまこととはウソの別名です。野暮な客はそれを本気と思い、ウソがばれた時の様々な行動が落語のネタになるのだと思いますが、粋な客、いわば通人はそれらが全て遊郭のお約束事であることをわきまえていて、金銭を媒介した契約関係という前提を決して越えず、情人(遊女と金銭なしの関係になる男)にもならないというわけです。

遊女と客はいわば遊郭と言う虚構の場所で行われるロールプレイングのような化かし合いですので、それを逸脱する者は野暮、それをコントロールすれば通人という事なのだと思います。

ただし、野暮のうちにこそ実(じつ)があり、通となっては楽しみも削がれるのは自明の理。「楽しみも青いうち。通となってはヘチマの根(*)」という言葉もあるそうで。

 *) ヘチマの根とはつまらないもののたとえ


 
 kishi masayuki on the web


<<   TEXT MENU   >>

HOME