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■70年代日本のソウルミュージック事情 日本でいわゆるソウルミュージックが市民権を得たのは久保田利伸さんが出てきた1980年代だと私は思っておりますが、それまでは日本の音楽の傾向とソウルは親和性は低かったと思います。 なので、1970年代はソウルの分野で高い歌唱力を持っている人も、表舞台で活躍するには職業作家の書いた歌謡曲を歌うという選択肢しかなかったような気がします。例えば、朱里エイコさんやしばたはつみさん、和田アキ子さんもソウルやファンク系の横文字の曲の方が本来の持ち味なのしれません。 では、1970年代にテレビの歌番組とは縁のない本格的なソウルバンドはどこで活動していたかといえば、ほぼ黎明期であったディスコのバンドとしてだったようです。ただし、ディスコといっても当然ピンからキリまであって、その頂点が赤坂にあったムゲンという店でした。 そこで数少ない日本人バンドとして活動していたバンドが「スリー・チアーズ&コングラッツレイションズ」でした。ちなみに近田春夫さんのバンドがディスコバンドのオーディションに行くと、よくこのバンドと一緒になり、群を抜いて存在感のあるバンドと感じていたそうです。 スリー・チアーズは3人のヴォーカルから編成され、オーティス・レディングばりの声の持ち主のチカさん(男性)、ミミさん(女性、後の宮本典子さん)、裕三さん(後のグッチ裕三さん)がおり、1970年代半ば、赤坂ムゲンや六本木アフロレイキ、福生のベースキャンプなどで活動していました。グッチ裕三さんのyoutubeでその時の短い音源が公開されていますが、その演奏は高水準で、特にリードをとるチカさんの強力なヴォーカルには日本にもこんな人がいたんだとかなり驚きました。 バンドでデビューの話もあったといいますが、このバンドは日本でのデビューよりもアメリカでの活動が夢で実際に渡米します。その際に頼ったのがチカさんが面識があり、アメリカで活動していた日本人バンドのブラウン・ライスでした。けれど、この渡米はうまくいかず、全員失意のうちに帰国しますが、ミミさんは宮本典子名義で1970年代後期に日本でデビューしており、私はその時代の「エピローグ」(作詞はユーミン)というどこかソウルの香りのするシングル曲をよく覚えています。 ただし、ミミさんはこの日本での活動が不本意だったようで、再度アメリカに渡り、グラハム・セントラル・ステーションでのヴォーカルなどに抜擢されることとなります。グッチ裕三さんはご存知のようにその後、ビジーフォーを結成し、コミックバンドとして成功します。 ちなみに私は宮本典子さんをソウルやジャズ系のシンガーとして認識していましたが、ルーツにこんなストーリーがあったことは知りませんでした。また、グッチ裕三さんも、このようなバックグラウンドがあったのは初耳で、ご本人が望めば、正統派のヴォーカリストとして活動する道もあったのだと思います。 その昔、ロカビリーの歌手が成功するためにロカビリーとは全く接点のない歌謡曲を歌ったり、本来は正統派のジャズバンドであったクレージーキャッツがコミックバンドになったり、ドラマーだったフランキー堺さんが俳優になったように、世の中の流れを見据えて転向するということは芸事の分野ではしばしばあり、それほど芸事を生業とするには時代に即したある種の縛りがあるということなのかもしれません。1970年代にはディスコのハコバンドとして十分に需要のあったソウルバンドも時代の流れとともにハコバンドという形態そのものが消滅していきました。 好きなことを仕事にするのははたから見れば、楽しいことと見えるのかもしれませんが、それを商業ベースに乗せるには様々な修正が必要で、多かれ少なかれ葛藤や逡巡、縛りや制約が付きまとうということなのだと思います。
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