■ブラウン・ライスの見た夢
ブラウン・ライスは1970年代前半に惣領泰則さんをリーダーに結成された日本のグループです。活動の中心が完全にアメリカ本土だったので、日本では一部のマニア以外にはほとんど知られていないと思います。
1969年ごろ、惣領泰則さんはシング・アウトというグループのメンバーとして活動し、NHKの音楽番組「ステージ101」にも出演していたそうです。このシング・アウトのメンバーだったのが、樋口康雄さんやベースの原田時芳さん(クマ原田。のちにイギリスなどで活動)や石川セリさんでした。下写真のキーボードが樋口さん、ギターが惣領さん、男性一番右がベースの原田さん(女性の真ん中が石川さんでしょうか?)。ジャケット記載のネム・ポピュラー・フェスティバルとはヤマハが1969年から開催していたプロの作曲家に作品発表の機会を与える目的で開催されていたコンテスト。この「涙を越えて」の作曲は「ステージ101」の音楽監督だった中村八大さん。同時期にヤマハが主催していたポピュラーソング・コンテストはアマチュアのためのコンテストでした(ちなみにこの「涙をこえて」は男女混声の音域を考慮した、まさしく攻めたプロの曲。1969年にこのクオリティとは驚き)。
惣領さんは1971年に「ステージ101」を卒業し、ブラウン・ライスを結成。MGMレコードのオーディションに合格し、活動の場をアメリカに移します。メンバーは吉原智子(後に惣領智子)、高橋真理子(日系アメリカ人。桃色吐息の人とは別人)、池田美和、金田一昌吾、惣領泰則の女性2人、男性3人の5人組。なお、初期には浜芳江という女性ヴォーカルがいましたが、LAで交通事故に遭い他界。その穴を埋めるために高橋が加入したという流れらしいです。
ブラウン・ライスはポール・ウィリアムス/ロジャー・ニコルス作のカバー'I
Never Had It So Good'のプロモシングルも発見されていますが、目を惹くのはポール・マッカートニーが曲を提供したこと。これは'Country
Dreamer'という曲で、日本語ヴァージョン(日本での唯一のシングル・下写真)も発売されましたが、マッカートニーもこの曲をウイングスのシングル'Helen
Wheels'のB面としてほぼ同時期に発表したので、ブラウン・ライスのヴァージョンはカバーという扱いになってしまったのが残念。もしも、ウイングスのヴァージョンが世に出なければ、マッカートニーのレアな仕事ということで、ブラウン・ライスも脚光を浴びる機会があったかもしれません。1973年には全米各地、カナダなどでもツアー、翌年にはエンゲルベルト・フンパーディンクのオープニングアクトとして約半年の全米ツアーをしたとのこと。
惣領さんはアメリカに家を購入し、スタジオを設置するなど、腰を据えて本格的に活動しようとしていたようですが、多額の税金の発生や様々なトラブルにより、アメリカからの撤退を余儀なくされたということです。帰国後、ブラウン・ライスの女性ヴォーカル2人はティナというデュオを結成し、惣領さんのプロデュースの元、数枚のアルバムをリリースしました。
1970年代前半に海外に出て行った日本のグループといえば、キャピトル・レコードと契約したイースト(下写真はミュージックライフ誌1972年8月号の広告。瀬戸龍介さんと吉川忠英さんが在籍)、アトランティック・レコードと契約したフラワー・トラヴェリン・バンド、個人ではフリー、フェイセズのベーシストとして活動した山内テツさんなどがいますが、この時代は日本のグループも世界進出を夢見ていた時代でした。赤い鳥の1970年のファースト・アルバム、ロンドン録音の'Fly
With The Red
Birds'も暗中模索の時代によくあれだけのクオリティのものを作ったなと驚きます。あれもおそらく海外発売を目論んでいたのだと思います。同時期に国内でははっぴいえんどや加藤和彦さん周辺のミュージシャンがようやく台頭してきましたが、その流れとはほとんど重なることのないガチ勢がいたということは覚えておいてもよさそうです。
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