■TEXT

 Nov 27,2018

■雨月物語の死生観

 学生時代にはほとんど興味のなかった日本の古典を最近になって読み始めたのは、溝口健二監督の映画の影響です。「近松物語」や「雨月物語」など日本の古典を原作にした溝口作品に大変心を惹かれ、元の本はどんなものだろうと興味を持ったのでした。

上田秋成による「雨月物語」は江戸時代後期に書かれたので、近松よりも時代は新しい作品集です。私がこの物語で感じたのはその独特の死生観。一言でいえば、いともたやすく人が死ぬことで、それが特に一大事のようには描かれていない点です。その理由のひとつが死後の世界があたりまえのように存在していることを信じているからで、死んだ人間が霊になって生きている人に接するという物語が多いのです。

例えば「菊花の約」では、遠い地で幽閉された武士が義兄弟との再会の約束を守るために、自刃し魂になって会いに行くという話。もう、これがなんの躊躇や葛藤もなく、あたりまえのように死んじゃう(笑)。 死を賭して約束を守るという価値観は、死ぬことより優先するものが世の中にあるということだと思いますが、それと同時に死後にも魂は滅びず、現世の人とコンタクトできることが前提になっているのです。

考えてみれば、近松の心中ものも来世があることが前提の話だし、「浜松中納言物語」に至っては何代にも渡り、転生を繰り返すという話。死ぬことが決して終わりではないという思想は教訓的な寓話や宗教的なものに結びついた世界中に古来から存在した価値観なのかもしれません。そして疫病、災害、戦乱などで人がたやすく死んでしまう荒れた世の中にあってはこういう思想が死への恐怖や悲しみの緩衝材で、来世での幸福がせめてもの救済や慰めとなっていたとも考えられます。

ちなみに映画の「雨月物語」は「浅茅が宿」と「蛇性の婬」が原作ということなっていますが、「吉備津の釜」の体に厄除けを書くあたりも引用があります。小泉八雲はこれを参考に「耳なし芳一」を書いた可能性は高いのですが、秋成の前にも同じようなプロットが存在していたのかもしれません。そういえば八雲の原作の映画「怪談」(小林正樹監督)も大変素晴らしく、大好きな作品です。あれだけ丁寧に本気で作られた作品が1950年代ではなく、映画産業が斜陽化していた1960年代の作品ということにも驚きます。

 

■■■■■■■■ kishi masayuki on the web


<<   TEXT MENU   >>

HOME