■ポップスターの寿命
ビートルズ時代のマッカートニーが80歳を過ぎてもワールドツアーをやっている自分を知ったら冗談だろうと言ったと思いますが、そもそもポップスターが30代になっても現役でいるということは昔はありえないことだったのではないかと思うのです。
1950年代の音楽誌ミュージックライフで、ジーン・ヴィンセントの来日公演の記事を見つけました。1959年のことです。ジーン・ヴィンセントといえば、R&Rのクラシック「ビー・バップ・ア・ルーラ」のオリジネイター。マッカートニーが初めて買ったレコードはこの曲というのも有名な話。日本のロカビリー周辺に与えた影響も大きく、平尾昌晃さんのベレー帽や、ヴィンセントのバンド、ブルー・キャップスをいただいてブルー・ソックスなんていうバンドもあったようです。そんな人がよくファーイーストの、どこにあるのかも知らない地によく来たなと思ったのです。しかも、バンドを引き連れて華々しくというのではなく、ギタリストひとりだけを連れてきて、あとは日本人のミュージシャンがバッキングをやっているのです。連れてきたギタリストはジェリー・メリットという人、日本側のミュージシャンはギター
佐野修、ベース 石田智、ピアノ 鈴木康友、ドラム
ジョージ大塚という布陣(メリットはフェンダー・ストラトキャスターを使っており、日本人が初めて見るストラトだったかもしれません。また、佐野修さんの弾いているグレッチ6120はおそらくヴィンセントのギターだと思われます)。
調べてみると、ヴィンセントが来日公演をやったのは以下のような理由があったようです。ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」が全米のヒットチャートで7位までいったのが1956年。それ以降、シングルを何枚かリリースしますが、アメリカではすでにR&Rの人気は下降気味で、ヒットには結びついていません。そこで、アメリカに見切りをつけたというのです。ヨーロッパではまだR&Rの勢いがあったので、拠点をヨーロッパに移し活動し、その一環でロカビリーブームに湧く日本にも来たのでしょう。余談ですが、ヴィンセントは来日の翌年の1960年に'Michiko
From
Tokyo'という日本女性をテーマにした曲をリリースしていますが、この曲の頭にはドラの音の後に「あなてーわたすぃのこどもー」(おそらくyou
are my
babyの直訳)という妙な日本語のヴァースがあります。
そういえば、まだブレーク前のビートルズがクラブのような場所でヴィンセントと一緒に写っている写真を見たことがありますが、イギリスではまだ十分人気のあったR&Rショーでビジネスが成り立ったのでしょう。
それにしても当時のポップスターは夭折することが宿命だったように短命です。バディ・ホリーは航空機事故で1959年に22歳で、エディ・コクランは自動車事故で1960年に21歳で、そしてヴィンセントも1971年に30代の若さでこの世を去っています。
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