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 Apr 10,2024

■10年早かった人

 1966年はビートルズがアイドルであることを辞め、メロトロンの活用やテープの逆回転などサイケデリックなことをやり始めた年。今に比べ、情報の伝播が遥かに遅かった時代とはいえ、日本のポップス音楽と世界の最先端との隔たりはまさに異世界でした。別の言い方をすれば、日本の洋楽的な音楽は米英のものを取り入れつつも似て非なるものに帰結したと言えるのかもしれません。

おそらく、日本のプロのクリエイターの中にも当時のビートルズを正確に理解していた人もいたのかもしれませんが、これをトレースしても日本では商売にならないと思ったのでしょう。実際、GSのカバーでもストーンズは演っても、1966年以降のビートルズのカバーしたグループはごく少数だったと思います。そのような中で、果敢にも誰もカバーしようとは思わなかった「ペーパーバック・ライター」をビートルズのリリースと同じ年に演っていたのが弘田三枝子さんでした。ポップス、ジャズ、R&Bなど洋楽に対しての解釈の正確さ、表現力など当時の弘田さんは群を抜いていた感じです。

例えば、どういうところが天性かというと、1964年にレナウンのCMで「ワンサカ娘」という曲があります。何度もリメイクされたので「ドライブウェイに春がくりゃ」というこのCMソングを覚えている方も多いでしょう。この曲の「レナウン・ムスメが」という部分、音階で書くと「ドドラソ・ラソミド」なんですが、弘田さんはここを「レナウゥン・ムスメガ」と「ウ」の部分にコブシを入れて「ドドドラソ・ラソミド」と歌うのです。こういう洋楽的な歌いまわしはおそらく作曲家に指定されてやっているのではなく、自然と身についているのでしょう。

1965年に海外録音でビリー・テイラー・トリオをバックにリリースされたジャズアルバム「ニューヨークのミコ」(*)の時に弘田さんがまだ18歳だったということにも驚きですが、その3年後の1968年のライブ盤「ミコ R&Bを歌う」は玉石混交だったGSブームの真っ只中にあって本物感のあるアルバムでした。翌年の第2集も素晴らしい出来。ちなみにこのライブ音源、アメリカでもオープンリールテープというフォーマットでリリースされた模様。タイトルは'Ah! Soul Introducing MIKO On Stage' 。

弘田さんは生まれるのが10年早かった人だと思ってます。ゴールデンカップスがここまで伝説化されるのなら、弘田さんはそれ以上のレジェンドではないかと。歌謡曲ジャンルでも「渚のうわさ」(1967年)とか言わず知れた「人形の家」(1969年)とか素晴らしい。1960年代の弘田さんの音楽ドキュメンタリー映画、どこかが作らないかな。

*〜このアルバムにはボビー・ヘブの書いた「サニー」が収録されているが、これはボビー・ヘブが自ら歌い「サニー」を全米でヒットさせた1966年の前年のことだった。つまり、弘田は「サニー」をレコーディングした世界初の歌手だったのである。


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