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■Pretender以降 「Pretender」がリリースされた1984年1月、すでに作曲家としての活動はスタートしていて、定例のライブで は今度こんな人にこんな曲を書きましたと自ら演奏したりもしていました。作家事務所であるサムライミュージッ クと正式に専属契約したのがこの年の中旬ごろだったので、この時期はビクターでのアーティスト活動とサムラ イでの作家活動を同時に行っていた「2足のワラジ」の期間でした。 翌年の1985年になると作家のほうでスマッシュヒットが出始め、活動の拠点はそちらへシフトしていきました。こ の時期はまだビクターとの契約は形式的には存続していたのですが、他のレコード会社からもう一度シンガー ソングライターとしてレコードを出しませんかというオファーはよくいただきました。実際に某レコード会社がスタ ジオを押さえてくれて、それ用のデモを制作したりもしましたが、その頃の私の関心は自分のレコードを出すこ とではなく、作曲家としての活動をどうにかして軌道に乗せることに移行していたのです。 私はリリースの予定もない自分用の曲を書くといった作業に飽き飽きしていて、曲を書けば数ヶ月後には確実 にリリースされ、反響があるという作曲家としての活動に気持ちが移っていたのです。その某レコード会社で作 ったデモ用の曲もその後、誰かのプレゼンにかけてみると採用されて確実に作品として世に出て行きました。 私は音楽というつかみどころのない仕事を職業にしている以上、20代でなんらかの実績を作っておかないとや ってる意味などないと思っていたのです。大先輩である筒美京平氏は「職業作曲家の仕事はヒット商品を作る こと」だとおっしゃいましたが、私はそこまで割り切れないにしても、「いいものを作っていれば、ヒットなどしなく てもよい」というアマチュアっぽい考えには同調できなかったのです。そしてヒット曲とは作品そのもののクオリ ティだけではなく、きわめて多くの要素によって生まれるという事実を身を持って知ることになりました。 2002/9/24 |
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