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 May 25,2025

■高橋信之さんの慧眼

 1970年代初頭、新しい才能が次々と頭角を現してくる日本の音楽界のキーパーソンのおひとりに高橋信之さんという方がいます。

ドラムの高橋幸宏さんの6歳上の実兄で、ご自身も1967年にフィンガーズ(成毛滋さんが在籍)というバンドでプロデビューしています。フィンガーズは当初、ベンチャーズ・タイプのインスト・バンドでしたが、1968年に折からのGSブームにより、GSタイプのバンドに転向することを余儀なくされ、1969年に解散しています。

ここから高橋氏は音楽プロデューサーとしての手腕を発揮することになりますが、氏はその後の日本の音楽界を牽引するようになるミュージシャンを多数ピックアップしています。

例えば、ユーミンはフィンガーズの大ファンで、米軍のPXで入手したマニアックなレコードを持っていたためにファンの中でも一目置かれる存在で、高校生の時、すでに高橋家に遊びに行っていました(幸宏さんの談話で学校から帰ってくるとリビングにユーミンがいたという話があります)。幸宏さんと後にバズとしてデビューする東郷昌和さんは小学校からの同級生で、高橋家と東郷家は家も近く、家族ぐるみの付き合いがありました。

ある日、ユーミンが私は曲も書けますと高橋氏に聴かせたのが「マホガニーの部屋」。この曲のメロディは後に加橋かつみさんのシングル「愛は突然に」となり、ユーミンの作家デビュー作となるのですが、そのきっかけがこの曲を高橋氏に聴かせたことでした。高橋氏はこの曲を評価し、当時放送作家をしていた景山民夫さんに働きかけ、若者向け情報番組「ヤング720」に東郷さんがヴォーカル、幸宏さんがドラム、ユーミンがピアノを弾くというメンバーで出演させました。

高橋氏はこの時期、CM音楽も多数手掛けており、高橋氏が作曲し、日産スカイラインのCMで製作した「ケンとメリー〜愛と風のように」(1972年)がバズ(高橋氏のプロデュースで東郷さんが在籍したデュオ)の歌でヒットしましたが、このレコーディングはドラムが幸宏さん、ベースが小原礼さん、そして、ピアノはなんとユーミンでした(この時期の高橋氏のプロデュース作品にはユーミンがピアノで参加している音源がいくつかあるようです)。1996年に行われた荒井由実時代を再現するコンサート「Yumi Arai The Concert with old Friends」で「ケンとメリー〜愛と風のように」をユーミンが歌った(アルバムには未収録)のにはこのような背景があったからでした。

ちなみにCM関係のヴォーカルでも高橋氏は新しい感性を持った人たちを多く起用しており、まだ高1ぐらいだったユーミンと、高2ぐらいの東郷さんと、東郷さんよりひとつ上ぐらいで後にガロになる日高富明さんの3人でCMのコーラスをやらせたこともあったそう(これは東郷さんの証言によれば「ウェストライダー」というCMだったそうです)。これなどは高橋氏がこれらのメンバーよりも6歳か7歳年上で、いち早く音楽界に活動の場を持ち、CMという新しい音楽形態が許される場で、まだ磨かれていない宝石のような人たちを登用した一例です。

また、ユーミンの幻のデビューシングル「返事はいらない」(1972年)には幸宏さん、小原さん、バズ、日高富明さんが参加しているといわれていますが、これは明らかに高橋氏のコネクションで知り合ったミュージシャンたちでした。

一方、私も聴き覚えのある1973年のゼロックスの「What to do next」というアカペラのCMは高橋氏のプロデュースですが、この難しそうなクローズド・ヴォイシングのコーラスをやったのはバズと2人時代のオフコースだったということです。ちなみにオフコースはこの時代、4、5歳も年下のバズが先に売れてしまったことにかなりの無念さを感じていたようです。

高橋氏のほかにこの時代の新しい感性を持ったミュージシャンを積極的に起用したキーパーソンには後にアルファレコードを興す村井邦彦さんや、フロントに立つミュージシャンでありながらプロデューサーとしてのセンスも持っていた加藤和彦さんがいますが、これらの界隈の優れた人脈が重なり合いながら、日本にもそれまでの歌謡曲のマナーとは異なる新しい音楽が生まれたというわけです。

また、東郷さんと幸宏さんの家が近く、同級生だったように、東京の中央に住むという地域性に加え、私立校内の学閥のようなものも大きく作用していると思われます。例えば、林立夫さんと小原礼さんは同級生、柳田ヒロさんのお兄さんと細野晴臣さんが同級生というように。それはかなり閉鎖的な場でしたが、優れた才能同士はすぐに他の才能ある人をかぎわけ、響き合い、さらに濃縮されていったのだと思います。ただし、彼らはその育ちの良さゆえに売れるということよりも良い音を作るということに重点を置いたために、商業的には成功しなかった作品も多数存在するという冷酷な現実もありました。そのような中でユーミンが後に歌謡曲主導の世界を一変させてしまうようなビックセールスとなったことは日本の音楽界そのものを変えてしまうほどの衝撃的なことだったのだと思います。

そこに至る序章には、ビジネスと同じ熱量で、どうにかして海外のレコードのようなサウンドを作りたいと奮闘した高橋氏や村井邦彦さんのような裏方のゲームチェンジャーがいたというわけです。


 
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