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 Mar 20,2025

■市ヶ谷ソニーの思い出

 私がCBSソニーで初めて仕事をしたのは1985年の松本典子さんのシングルだったと思いますが、実は学生時代にこの市ヶ谷のソニーへ出入りしていた時期がありました。

当時、ソニーで矢沢永吉さんを担当していた高久光雄さんにうちでデビューしないかと言われ、こちらもまだ学生だったので態度を決めかねていたところ、高久さんは押しの強い人ですので、宣伝やら、制作やらに問答無用で連れていかれ、「今度、僕がやることになったから」と紹介されたことは鮮明に覚えています。私はこの時代、自分の勘だけで書いていたような曲がいきなりプロの世界で通用するとは思っていなかったし、その未熟な部分を自分のコントロールできない力で補われることに抵抗がありました。けれど、聴きたいレコードがあればなんでも持っていきなさいと大量の見本盤やご自身の著書をいただいたり、私にとって市ヶ谷は勉強の場であり、制作とは別の、産業としてのレコード会社を垣間見せられる場所でした。

ディレクターにも大きく分けて2つのタイプがあり、ひとつは担当アーティストの書く曲の細部までコントロールしないと気が済まない人と、もうひとつはどちらかといえば放任で、アーティストにほとんどを委ねる人がいますが、高久さんは前者に属する人だったと思います。レコード会社の目標はヒット作を作るということであり、そのような意識のあまりないアーティスト(少なくとも当時の私はそのような意識は希薄でした)とレコード会社との間にいるディレクターの仕事はこの微妙に背反する2つをまとめあげ、塩梅の良いところに着地させることなのだと思います。

結局、こちらの至らなさでソニーでのデビューの話は流れましたが、その後、氏が青山ツインタワーのエピックソニーに移られ、私が打ち合わせでエピックに行き、偶然再会した時も、「あの時、僕のところでやればよかったのにねぇ」などとイヤミのひとつも言われ(笑)、それでも、食事に誘われ、君はこういうのを聴きなさいと資料のCDをたくさんいただいたりして、なにかと目をかけていただきました。確か、その再会時に曲を書いて持ってきなさいと言われ、何曲か書き下ろして聴いていただいた覚えがあります。その曲がボサノヴァっぽかったので、資料でボサノヴァのCDを貰ったのかもしれません。ちなみにそのCDには「社外持ち出し禁止」のシールが貼ってありました(笑)。

高久さんとの唯一の仕事上での接点は、高久さんがソニー時代に担当されていたラジさんのシングルを私が書いたことでしたが、これはラジさんが東芝に移籍してからの仕事でした。ただし、2018年に出たラジさんのベストでは、高久さんがプロデュースだったので私の曲も聴かれたと思います。

その高久さんも昨年、鬼籍に入られたとのこと。市ヶ谷のオフィースを長身の高久さんが忙しく歩き回っていた姿はよく覚えていますが、そこにサーファーみたいな格好をした学生時代の私もいたのだなと思うと不思議な気がします。

高久さん、色々とお世話になりっぱなしで結局、何のお返しも出来ず、心苦しいばかりです。ありがとうございました。


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